「沈黙」 遠藤周作

映画の沈黙が見たかったので、ずっと敬遠していた原作を読みました。本屋に文庫が何故か全然なく(重版とかいってたけど沖縄にはこないの!?)図書館も順番待ちで、Kindleから購入。

思ったより読み易く、すいすい読めたんですが、中身はヒジョーに重い!中学の時先生が「いい本だよー」と絶賛していたんですが、あの頃より人生の経験値を積んだ今読めてよかった。

 

色々な視点から読めるんです。

 

神の沈黙―神は本当に存在しているのか

現代にも通じる宗教への迫害

信仰の強さと絶望的な貧しさの関連

土着のキリスト教への変容―神は誰の為に存在する?

などなど。

 

で、読了後私がずっと考え続けているのは踏絵のシーンなんです。

その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った

 

この瞬間の超重要シーンなんですがここがよくわからなくて。

 

というのは私はここ内的に主人公の中から発生したと思っているんですが、本国で映画を見た人で「ヒャッホー!やっぱり神様は声かけてくれたんだよね」みたいな感じで外的に主人公に神様(イエス?)が声をかけたと思ってる人が結構な割合でいるらしいと。

え、そういうとらえ方があるんかい。とびっくりして。沈黙っていうテーマの本だけど最終的には神様は声かけてくれたよーみたいなハッピーエンドって解釈!?ってすごい何か180度違う本に見えてきて。で、もう一度読み返すとはっきりは書かれていないんですよね。

 

踏絵の場面を主人公がもう後から思い出すシーンがあるんですが、

「主よ、あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

(中略)…この烈しい悦びと感情をキチジローに説明することはできなかった

 

 

って感じでうーん。外的な声が聞こえたって思えても不思議はないかも。と思うのです。

私はキリスト教の背景がまったくないんですが、キリストって声かけたりするの?仏教とかだとお釈迦様が夢の中で…とか割とあるような。ここでいう神様ってキリストのことじゃなくて、もっと根本的な神様のこと??

沈黙=神?

言葉をかけてくれた人=キリスト?

でも直接的な声が聞こえたってやっぱり感覚として違う気がする!!

とかもー、読了後イロイロ考えてしまい、まだ悶々から抜け出せていません。

他の方のレビューとか読んでみると心に残る部分は千差万別。
それもこれも名作の証。映画と合わせて是非ご一読を!


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